Interview

『スーパーマリオワールド』に憧れた小学生が、世界屈指の背景アーティストとして評価されるまでの軌跡

取締役/モデリング・スーパーバイザー鈴木卓矢

スクウェア・エニックスでは『ファイナルファンタジー』シリーズ、 Blizzard Entertainment では『World of Warcraft』シリーズや『Diablo III』など、名作を手がけてきた鈴木さん。背景アーティストとして世界的な評価を受けるまでには、つねに海外を意識したキャリア形成と教育を大切にする先輩たちの後押しが不可欠でした。背景アーティストを志し、SAFEHOUSEで取締役に就任するまでのお話を訊きました。


自己紹介をお願いします。

SAFEHOUSEでモデリング・スーパーバイザーをしている鈴木卓矢です。埼玉で生まれて、埼玉で育ちました。東京工科大学メディア学部の一期生で、アカデミー特別業績賞を受賞した『トータル・リコール』を手がけた金子満先生の授業を受けていました。先生は「日本のCGの父」とも呼ばれている人で、JCGLという日本初のCGプロダクションを作った人としても知られています。元々海外で仕事をしたいという思いが強かったので、この人についていれば海外が近くなるんじゃないかと思って入学しました。在学中からCGをより深く学ぶために短期でスクールに通っていたのですが、そのCGスクールの発表会にスクウェア・エニックスで働いている先輩が来てくれていました。発表会後にその先輩に声をかけてもらえて、もちろん面接などはありましたが、卒業後はスクウェア・エニックスに入ることになりました。当時は映像部署は新卒採用がなかったので「君は職歴がないからアルバイトね」って言われて(笑)。

ゲームには興味があったんですか?

ゲームは幼少からかなりやっていました。6つ上に兄貴がいたんで、欲しいゲームがいくらでも「流れてくる」環境だったんです。ちょうど小学校1年生くらいの時にスーパーファミコンの『スーパーマリオワールド』が発売されたんですけど、驚きましたね。近景と遠景がしっかりあって、マリオが走ると背景が視差でずれて動くんです。ファミコンの8ビットハードに比べて、立体感と臨場感が出ていて幼いながら感動しました(笑)。次に衝撃を受けたのは『ファイナルファンタジーVIII』ですね。急に映像がリアルになって、もうほとんど映画だと思いました。高校1年生ぐらいだったと思いますが「僕もゲームが作りたい」って思い始めました。


社会人3年目でアメリカ行きのチャンスを一度逃しました。そのことで海外で働くための準備を本気で始めました

もともとスクウェア・エニックスへの就職は希望していたんですか?

卒業後は海外で仕事をしたかったんですが、当時は海外でどうやったら働けるのかという情報はなかったこともあって、あては見つからず。とりあえず日本で一番有名なゲーム会社ということでスクウェア・エニックスの映像部署を目指すことにしました。今はイメージ・スタジオ部という映像専門の部署があるんですが、当時はヴィジュアルワークス部というCGを扱っている部署があって、そこでの採用でした。僕が働き始めて数年後にヴィジュアルワークスにセス・トンプソンというモデラーが、アメリカの Blizzard Entertainment からスクウェア・エニックスに転職してきました。彼は僕が担当していた「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」という映像作品に加わりました。作品が完成して、セスがBlizzardに戻ったタイミングで「鈴木もBlizzardへ来ないか?」と誘ってもらえ、面接を受けにカリフォルニアのアーバインまで行きました。ところが、当時のBlizzard Entertainmentではモデラーは、背景とキャラクターの両方をやらないといけませんでした。あの頃は僕は25歳で若くて尖ってたというか、ハリウッド映画での背景モデリングを目指していたのでキャラクターは作りたくない」と言って断ってしまいました。そこからもう3年、スクウェア・エニックスにお世話になります。

海外が遠くなってしまうとは思いませんでしたか?

いや、実際にはそこから本気を出し始めましたね。自分の実力が世界に通じたことで掴めるかわからない夢だったものが手の届く目標に変わった瞬間でした。必死で英語の勉強を始めて、海外に照準を合わせるようになりました。それから3〜4年経って『ファイナルファンタジーXIII』の制作が終わって海外への就職活動をしようかなと思っていた頃、セスからまた連絡がありました。Blizzard Entertainmentのモデルチームがキャラクターと背景に分かれて、セスが背景チームのリーダーになったので「もしBlizzardに興味があるなら背景チームに来ないか?」って。ただ、それまで僕はゲームのプリレンダリングのムービーをやってきたわけですが、本当はハリウッド映画をやりたかったんです。実写に視覚効果を組み合わせるVFXですね。その連絡の後はBlizzard EntertainmentでプロデューサーをしていたTAKAさんとやり取りをしていたわけですが、ハリウッドのVFXスタジオに応募しようとしていることを正直に話しました。すると、日本人がワークビザを取ることが如何に難しいかという話をされました。TAKAさんは日本人だったのでその難しさをよく分かってたんですよね。それでBlizzard Entertainmentでビザを取ってあげるから、生活が整ってからVFXスタジオに移ったらと提案してくれました。要は自分と妻のビザを出してくれて、その上生活が整ったら他の会社に移っても良いという破格の高待遇です。その上、3か月無料で洋服だけあれば生活できる住まいの用意、日本からの引っ越し費用(全部で100万近くあったかな)、飛行機チケットの手配、英語は働きながら覚えたら良いと言われ、即決で渡米を決断しました笑

Blizzard Entertainmentで使っていたデスク。
Blizzard Entertainmentで使っていたデスク。

アメリカではすぐに働き始められたんですか?

O-1ビザと呼ばれる、芸能人や、当時のイチローとか松井秀喜とかスポーツ選手が持っているようなビザを申請しました。それが発行まで1年くらいかかって……その頃には29歳になっていました。元々Blizzard Entertainmentで少し働いてすぐにハリウッドに移ろうと思っていたんですが、ハリウッドのVFXアーティストたちとの交流の中で、その気持ちは薄れていきました。Blizzard Entertainmentはライフスタイルや家族との時間を尊重する風土があります。それもあって、別のスタジオでハードワークで家族との時間がなかなか取れなかった才能のあるシニアアーティスト達が、ファミリーケアのしっかりしているBlizzard Entertainmentに移ってきていました。ということで、第一線で働いていた彼らからまだまだ勉強できることがたくさんありました。
さらにデザイン的な作業やアートディレクターと直接絵作りに対してやり取りができるという自分が成長できるチャレンジングな環境がそろっていましたし、BlizzardEntertainmentに残るほうが将来的なメリットが大きかったです。

Blizzard のチームメイトと一緒に。左がセス・トンプソン
Blizzard のチームメイトと一緒に。左がセス・トンプソン

アーティストとして成長するには、どんな仕事をするかよりも誰と仕事をするかが大切です

Blizzard Entertainment で働くことで何を得ましたか?

一番大きいのは「自分がどうしたいのか」をよく考えるようになったことです。日本にいたときは指示されたことを確実に作っていくというスタイルでやっていました。Blizzard Entertainmentに行ってからはその辺りの意識がすごく変わりましたね。ミーティングの度に聞かれるんです「鈴木は何をしたいんだ」「鈴木は何を表現したいんだ」と。全てにおいて自分の考えを持って作っていくんです。初めはかなり大変でしたが、それができるようになったことはアーティストとして大きな前進だったと思います。あとは「どの仕事をするか」よりも「誰と仕事をするか」を重視するようになりました。スタジオにはアーティストが大勢いるので、常に刺激を受けてセンスが磨かれます。それに優秀なアーティストたちが惜しげもなく知識や技術を与えてくれます。日本だと「仕事の中で覚えなさい」「背中を見て学びなさい」という環境が多いと思いますが、みんな子どもに教えるみたいに噛み砕いて丁寧に教えてくれます。感覚的にではなく、理論的に教えてくれるので、プロジェクトをこなすごとに自分の成長を実感できました。今でもあの人たちがいたから私も成長できたという実感がありますし、だから日本に帰ってきてからも、そういう教え方をしたいと考えていました。渡米するまでは大作に関われば成長できると思い込んでいましたが、変わりましたね。仕事の中での成長は微々たるものです。

ゲーム発売記念のパーティー
ゲーム発売記念のパーティー

日本にいた時と大きく違うことは何かありましたか?

一番大きいのはアートディレクターと直接話す機会があることですね。それまではアートディレクターがモデリングのリーダーと直接話すので、結局「つくる」だけでした。Blizzard Entertainmentではアートディレクターとアーティストが直接話せるので、「考え方」や「どうしたいのか」「どう表現」するかについてキャッチボールがありました。自分の中でセンスを磨く瞬間も得られたように思います。日本では「これを作ってください」みたいなものが用意されていたので、引き出されたり、プレゼンテーションしてより良い案に磨いていくというような過程が少なかったような……。もちろん日本でも自分でデザインするという場合もあるんです。ただ、そこに対して「なぜカッコ良くなるのか」「なぜ、そうあるべきなのか」をあまり聞きません。Blizzardで一緒に仕事をしたArtDirectorは必ずそれを聞かれますし、プレゼンテーションする必要があります。そうすることで建設的な意見のやり取りができて、効率的にブラッシュアップもできます。日本でも海外でも会社によって違いがあるとは思いますが、Blizzard Entertainmentでは特にそういうところが徹底されていました。あとは少数精鋭であることが大きな違いですね。5分ぐらいのトレイラーの背景をコンセプトがない状態から一人でデザインから考えて立体化して、そのモデルデザインのプレゼンして、モデルレイアウトをして背景の絵作りのプレゼンしてという、アーティスト一人が作品の世界観に大きく影響を与えることができる環境に驚きました。3人で3つのプロジェクトを回していた時期もありましたよ。

どういう経緯でSAFEHOUSE代表の由良さんと働くようになったんですか?

Blizzard Entertainmentで5年働いて、日本に帰ってきました。もともと永住する気はなくて、家族のこともあって5年と決めていました。帰国後はスクウェア・エニックスの先輩が作ったCGプロダクションで、モデリングのスーパーバイザーとして働き始めました。その会社が5年ほどでスタジオを閉じることになったんですが、そのころにSAFEHOUSE代表の由良浩明から「一緒に何かやりませんか」と誘いを受けました。由良とはBlizzardで会ったことがあって、その後もたまに会っては日本で一緒に何かやりたいと話していました。元々由良は映像やゲーム音楽、音響のプロデューサーをしていましたが、米国での経験を活かして映像業界でビジネスを立ち上げようとしていたんです。そのタイミングで、由良からドイツでアートディレクターをしていた エラスマス・ブロスダウを紹介されました。そして彼の得意とする Unreal Engineとリアルタイムレンダリングに可能性を感じて SAFEHOUSEを一緒に立ち上げることになりました。Blizzard Entertainmentで学んだ知識を人に伝えて、人を育てながら仕事をしようと思っていたので、大きい組織ではどうしても難しくなります。自分のチームを作って、作品に携わりたいという思いが強くありました。その点で由良はBlizzard Entertainmentのやり方を知っていましたし、僕の思いに共感してくれました。

SAFEHOUSEではどういう仕事をしていますか?

SAFEHOUSEでは背景モデリングのスーパーバイザーとして働いています。クライアントと相談してデザインの方向性をチームに共有したり、チームで考えたデザインを提案して背景のファイナルルックをきめたり、スケジュールに対してクオリティーの管理をしたりする仕事ですね。僕のチームにいるアーティスト達が仕事のフィードバックを通して成長できるように、やりたい仕事、成長するために必要な仕事を成長具合に合わせて仕事を振り分けています。また背景で絵を作るということはどういうことなのかを一人一人に伝え、全員がアートに対してディレクションできるように心がけています。今私のチームには10人ほどのモデラーがいますが、一人で見るにはかなり多いほうだと思いますね。普通はスーパーバイザーの下に2〜3人くらいリードがいて、その下にジュニアがつきます。会社のスーパーバイザーというよりも、学校の先生みたいな感じになっています(笑)。僕も日々成長しているのでそれをちゃんと一人一人に共有できるような体制でやっています。

鈴木卓矢さんのインタビュー後編はこちら

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